今日は、公務員採用試験(面接試験)の個人指導を行いました。半数の受講生はリモートによる出席です。
「どうして、公務員になろうと思ったの?」
誰でも想定でき、誰でも準備している質問です。
私は、エンジニアになろうと小学生のころから決めていたので、公務員になろうとは少しも思ってもいませんでした。これは模範解答にありません。念のため(笑)。
しかも、エンジニアは機械相手の仕事で人と接する機会が少ないから・・という理由で・・指導者泣かせ子どもだったのです。時代は、高度成長の反動現象である「公害」という言葉が、水俣病やイタイイタイ病などともに認知され始め、こうした社会の要請に応じ、大学にも「環境」を冠にした学部、学科が目立つようになり、私もその道を歩もうと決意したのです。環境汚染や公害問題を取り扱う「環境庁」が、当時の総理府の外局として設置されたのは1971年(環境省に格上げされたのは2001年)のことです。
ところが、大学を卒業するちょうどそのころ、オイルショックによる企業業績の悪化で、オプショナルな「公害」部門は閉じられることになり、私は就職先のほとんどを失います。
知らない方のために・・オイルショック(第一次)とは1973年(昭和48年)、中東の産油国が原油価格を70%引き上げ、「狂乱物価」といわれるインフレが発生したことを言います。急激なインフレを抑えるために、日銀は公定歩合を9%にまで引き上げました。これによって景気は悪化し不況に陥ることになります。
その後、イラン革命(1979年)やイラン・イラク戦争(1980年)の影響で、原油価格は3年間で2.7倍にも跳ね上がりました。これが第2次オイルショックです。
記憶に残る現象としては「トイレットペーパー買占め騒ぎ」でしょう。政府は買占め防止のために政令を作りました。コロナ禍の「マスク騒動」と似ています。政府は「石油節約運動」として、日曜ドライブの自粛、高速道路での低速運転、暖房の設定温度調整などを呼びかけました。コロナ禍の「自粛要請」と似ています。
こうした事態に、省エネルギーを所管する「資源エネルギー庁」が、当時の通産省内に設置されたのは1973年のことです。コロナ禍は人類存亡の危機、政府も組織横断的な対応を迫られているのですから、このような専管組織が出来てもおかしくありません。