長岡市内で行われる職員研修の前に「米百俵の群像」を訪ねました。県立近代美術館を含む、広大な「千秋が原ふるさとの森」の中にあります。
1870年(明治3年)戊辰戦争に敗れ、焦土と化した長岡藩に、支藩である三根山藩から見舞いとして米百俵が届きました。しかし、藩の大参事(現在の副知事にあたる)だった小林虎三郎は、その日の食事にも事欠くありさまだった藩士たちを説得し、その米を売り、その代金で学校を建てたのです。
「食えないからこそ、教育をするのだ、学校をつくるのだ」
小林虎三郎の建てた学校は、近代日本の発展に貢献した多くの人材を輩出します。そして、「米百俵」の逸話は、1943(昭和18年)、作家山本有三の手によって戯曲となり、全国に知られるようになったのです。
1945年8月、長岡市は空襲によって再び焼け野原となってしまいます。しかし、長岡の人々は米百俵の精神で復興に取り組み、予定より1年早い1953年11月、全国戦災都市のトップをきって、復興都市計画事業を完成させたのです。60年後の2004年10月、今度は長岡市を新潟県中越地震が襲い、多くの市民が家を失うなどの被害を受けました。全国から義援金が届きました。しかし、多くの長岡市民は被災した青少年の奨学金に充てるため、義援金を寄付したのです。
このように米百俵の精神は、親から子、子から孫へと伝えられています。米百俵の精神は人財育成の大切さを教えたものですが、同時にそれは「目先のことにとらわれず、明日のために行動する」という意味でもあります。
国づくりは人づくりから。今の百俵より、未来の一万俵、百万俵を考たいものです。